ボードゲームのマニュアル校正の話3

秋のゲームマーケットに向けて、また少しボードゲーム関連の校正・校閲のお手伝いをさせていただきました。

今回も多くの点で勉強になりました。いつもと違う視点、頭の使い方、そしてゲームの可能性について考えさせられました。

またゲーム制作者、デザイナー、イラストレーターさんたちへの尊敬の念がいっそう強くなりました。

 

以前ツイートしたように、自分の校正者としてのスキルがボードゲーム制作に(メジャー作品はともかく同人・インディーズに)求められるのかどうか、本当に役に立つのかどうか未だに確信が持てません。そして、自分がやっていいのかどうかも分からない。

それは、作業をしていて「この指摘は必要なのだろうか?」と思うことが多いからです。

それでも今回ご縁があった皆さんには労いの言葉を頂戴し、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

自分の好きなボードゲームという分野で、作品完成の喜び、制作者の喜び、手に取ってくれた方の喜び、それらを身近に感じられるのは本づくりと同じく大きなモチベーション。ですのでもし必要とされるなら、可能な範囲でまたお手伝いできればと考えています。

 

今日は「自分の(書籍の)校正者としてのスキルが本当にボードゲーム制作に求められるのか確信が持てない。自分がやっていいのかどうか分からない」について補足的に少し書きます。

※以下「校正」は「校閲」の意味も含むものとします

自分の校正経験はボードゲームとは違う分野で積んだものだけど、印刷物の校正の基本は大きく違いません。それどころかむしろ、違ってはいけないと思います。

もちろんある程度は校正対象によって視点やフィルターを変えますし、分野による作法の違いもあるでしょう。

ただ校正者のなすべきことは基本的に同じです。

詳しくは以前、↓ の記事に書いたので省きますが、誤りや内容の不備、矛盾点、文章や体裁の乱れ、時には誤訳等を、制作者の意図的なものかつ一般に許容されると思われるもの以外すべて指摘することです。しかしだからといって、いきなり自分がそこへ入っていって普段のテンションで作業していいものなのか…。

明らかにおかしいところは当然、無条件に指摘しますが、一部の(あくまで一部の)メジャー作品でも見られないような日本語や体裁等の指摘を、同人・インディーズゲームの校正において細かく行うべきなのかどうか、そんな指摘を求められているのだろうか、何の役にも立たないのでは? と引っ掛かりました。

さらに、自分のような立場の校正者が現状の仕組み(文化)の中に踏み込んでいいのだろうか? とも考えました。

校正に慣れている人が相手なら校正のあしらい方を知っているので気にならないのですが、進行スケジュールも厳しい中、指摘が逆に負担になったり、迷惑をかけたり、制作の楽しさを阻害したりしないかと心配でした。(そんな中、丁寧に対応してくださった制作者の皆さんには感謝しかありません)

もちろん、そういうものを求められるならその通りにやります。ただやはり、求められていないかもしれないことをガチガチにやるのは、かなり躊躇いがあります。やりながら「別にこれくらいママでいいのかな?」と何度も自問しました。

 

春のゲムマ後に書いた記事では、制作者の方に「紙面が許す限りどんどん(指摘を)入れてほしい」というご意見もいただきました。(ありがとうございました)今回、ある程度それを意識して作業したのですが、躊躇いは完全には消せませんでした。

 

でも基本に立ち返って、作る側ではなく使う側の立場で考えると、例えば説明書はゲームの補助的なものだけど、ユーザーが見て何となく(無意識的に)心地よい、ストレスが溜まらない、ゲームに入り込めるなどといった点に、校正者だからこそ寄与できることは間違いなくあるはずです。

校正の仕事って、ユーザーが作品を見たり使ったりしても「これの校正いいね!」とはまずならない類いのものですが、些細なことの積み重ねがどこかの誰かの楽しさ、安心や信頼に繫がっていくのだと思います。

それはメジャー作品であろうがインディーズであろうが、ボードゲームであろうが本であろうが大きくは変わらないと思います。

なので葛藤はありつつも、自分のやっていることを信じて気づいた点はなるべくご指摘するようにしました。

仕事を続けているとつい関係者の顔色を窺いすぎる癖がついてしまうけれど、そこはちょっと反省。

 

……このような今回の経験を踏まえて今後どのように作業していくのがベターなのか、どう関わっていくのがいいのか、もう少し頭をひねりつつ、また、制作者のお考えや業界の現状などもいつか伺えたらいいなと思っているところです。

 

ただ自分は根っからの校正人間なので、本来的な意味から大きく離れた校正はできません。これからも道を逸れることなく、あくまで自分なりに携わっていけたらと思います。

 

それに少し関連する話として、「校正者は徹頭徹尾、校正者であるべき」という持論についてちょこっと。

自分が考える校正者に必要な3大要素、

1、知識

日本語の知識、資料(検索)の知識、印刷物の知識。日本語の知識はそこそこでなんとかなるが、資料の知識は必須。「どこをどう調べれば解決できるか」を知っていること。

2、直観(校正の視点)

違和感を正しく感知して、疑問点として掬い上げる視点・物の見方。

3、論理(伝える技術)

誤りや疑問点を論理的に説明して正確かつ簡潔に伝える技術。

 

以上はどれも欠かせないものですが、特に「2」は最も得難く、しかし校正者を校正者たらしめる一番の要素という気がします。これは資質的な部分もあるとはいえ、常に校正者として対象を見続け、その上でたくさん優秀な校正者のお手本を見たり失敗(=見落としや余計な指摘)したりすることで身についていくものだと思います。必要なのは校正者独自の視点とバランス感覚で、他の誰かでも気づく点を拾い上げるだけなら存在意義がなく、独善的な違和感に基づいた指摘は信頼を損なうだけです。

↓ 春もこれに近い内容の話を書いています(ちょっと違っていますが)

また、「校正者」のスタンスを守り、他の専門領域に踏み出さないからこそ確保できる自由、物の言いやすさも大事だと思っています。本づくりで言えば著者や編集者、デザイナー等の領域にあまり立ち入らないこと。知識としていろいろな領域の仕事を知っておくことは役に立つけれど、校正するならあくまで校正者として居なければ歪み(ひずみ)が出てくる気がします。

どんな領域に関する指摘でも、校正者という立場(その領域のプロでない立場=一歩引いた立場)から行うことは、システムの中でうまく機能するために重要だと考えます。それは責任の所在・役割分担をはっきりさせておくということでもあると思います。

 

言いたいのは、「校正者だからこそ見えること、言えること、言うべきこと」が確実にあるということです。

なので、自分はこれからもブレずに校正人間で在り続け、その上で必要なら微調整を加えつつお付き合いしていけたらと思っています。

 

自分はボードゲームの分野において、何かを生み出すことも、ゲームの質や魅力を高めることも、ゲームの面白さを広めることもできませんが、旧来の意味の「校正・校閲」がもし求められるのであれば、同人・インディーズ・メジャー・国産・翻訳モノを問わず何かしら力になれることはあるのかなと思います。(時間があるかどうかは別にして……)

 

だから先のツイートの通り、ボードゲーム好きの校正者として、とりあえず扉は開けておきたいと思っているのです。

 

 

~~~~~

最後までお読みいただきありがとうございます。

いまの考えをまとめたいことと、地味ながらいち校正者として自分なりに声を上げておきたいという思いで書きました。

異論反論、その他いろいろあるかもしれませんが、発信することで得られるものもあると考えています。

では、また。ゲラの上でお会いしましょう。(←言いたいだけ)

f:id:dodo-argento:20191115145316p:image